自転車生活Vol.12
特集は「ローカル線と自転車の旅」。楽しく読みました。
南海21000系だった車両が2つの記事で取り上げられているが、大井川鉄道沿線を旅する白鳥和也氏と写っている車両の渋いたたずまいと、一畑電車の沿線を旅する木村裕子女史と写っている車両(3000系)の愛嬌のある表情の対比が良い。
えちぜん鉄道のサイクルトレインも参考になった。車両内のゴムひもで自転車を固定するのか。いつ実現するかはわからないけど、永平寺方面へ「レンタサイクル+サイクルトレイン」旅行計画を立案中なので。
特集は「ローカル線と自転車の旅」。楽しく読みました。
南海21000系だった車両が2つの記事で取り上げられているが、大井川鉄道沿線を旅する白鳥和也氏と写っている車両の渋いたたずまいと、一畑電車の沿線を旅する木村裕子女史と写っている車両(3000系)の愛嬌のある表情の対比が良い。
えちぜん鉄道のサイクルトレインも参考になった。車両内のゴムひもで自転車を固定するのか。いつ実現するかはわからないけど、永平寺方面へ「レンタサイクル+サイクルトレイン」旅行計画を立案中なので。
ミッフィー、うさこちゃんが好きな人には面白いと思います。お薦めです。
言われて気が付いた。確かにミッフィーたちの輪郭は、つるんとした曲線ではない。
Dick Bruna氏のアトリエ、オランダ・ユトレヒト(Utrecht)の街の風景、そこに自転車で通勤するBruna氏の写真も載っていて楽しい。彼の自転車は、なんと40年前から同じものとか。イギリス・ラレー社製の、いわゆる実用車。発電機が前輪に付いている。ブレーキはペダルを逆回転するものでなくて、我々も知っている左右ハンドルについたもの。city & life誌75号でも見かけた、荷台をまたぐ形のバッグ。
ちなみに、ユトレヒトから数km行けば、あの自転車道・歩道を中心にできている街、ハウテン(Houten)である。
[木へんに世]と書く「えい文庫」の一冊。
(執筆当時の)幕内・十両力士の中でサイクリングを趣味とするのが2人なのを「角界で2人だけ」と誤解して、自転車2人乗りの話題の前フリにするなど、いくぶん強引なところも見られますが、いいところついてる箇所もかなりあります。
特に、77ページの
やはり、あくまでも自転車は孤独であり、人間の「個」の風を運ぶはかなき物体だからです。
という指摘。
ついでにいえば、自転車は交通の「流れ」に乗るのを(歩行者主体の速度、クルマ主体の速度、どちらに合わせるのも)不得手にしていること。それを意識すればかなり操作に神経を使うこと。それ自身はほとんど音を立てないかわり、上記の事情から運転者の「聴く力」が要求される乗り物であること。…などが採りあげられていればなあ。
でも、著者の「表現したい!したい!」という能動性が全体から湧き上がってくる文体は、ある意味爽快です。読んでる途中は「この人自転車に向いてるかなあ」と思ったのですが、読後感はとても良い。
「魂の森を行け」の次に、宮脇昭著「苗木3000万本 いのちの森を生む」を読んだ。「苗木3000万本 いのちの森を生む」で宮脇氏自身の視点から書かれていることが「魂の森を行け」では周囲の視点も交えて描かれる、という比較もできて面白い。「いのちの森を生む」では、成長した製鉄所周辺の森や、使われているポット苗、宮脇氏やチュクセン氏らによる植生調査のようすを収めた写真もあって、より分かりやすくなっている。さらにありがたいことに、この本には「日本の潜在自然植生図」まで掲載。
その「潜在自然植生図」によると、今私が住んでいるあたりは「シラカシ-アカガシ群団」であるという。家から自転車でいけるところに、丘陵地のもともとの植生を生かした「かしの木山自然公園」がある。広場の脇にシラカシの大樹がシンボルのように立つ。シラカシの森・雑木林というエリアもあり、今の季節なら高木の葉が青々と茂っているか落ちているかで明確な違いが見られる。
ちょっと気になったのが、私の故郷・愛知県刈谷市の南部あたりの潜在自然植生が「ハンノキクラス・オノエヤナギクラス」らしいことである。ハンノキはよく湿地に自生するとのことだが、昔の境川が今よりずっと広かったという話を聞いたこともあり、不思議ではない。では現在「治水」という人間活動の影響によって湿地でなくなった状態の土地「本来の森」としては、何を植えれば良いのだろう。本文中でハンノキはすぐ育つが長持ちしないということも言われており、機能面から、やはりタブノキかシラカシを植えればよいのだろうか。
もしかしたら、川沿いの寺社にハンノキの鎮守の森とかがあるのだろうか。機会があったらちょっと見に行ってみよう。
各地の「潜在自然植生」に基づく植林活動を精力的に進める植物生態学者、宮脇昭氏の人生。
以下、ほとんど個人的な体験談になります。あしからず。
11月25日に刈谷に帰省したとき、父の運転する自動車に乗って、ちょうどきれいな赤や黄色に色づいた街路樹を見た。不意に父が「ここでは宮脇先生の指導で植林やってるところもある」と言った。「宮脇先生って、……宮脇、昭?」ここ十何年、とうに頭のなかに埋もれていた人の名前が甦った。
私は中学生の時、宮脇昭氏の著書「人類最後の日-自然の復讐」を読んで、大きな衝撃を受けたのである。生態学という言葉も、この本から知った。とにかくすごい勢いの文体が印象的であった。高校で生物部に入って植生調査の真似事をしたのも、大学で農学部林学科に入ったのも、その原点といえば「人類最後の日」だった。
そういえばこの人、今どうしているだろうと検索してみたら、宮脇氏は20年以上経った今も、変わらぬ勢いで突っ走っている。最近はNHK教育「この人この世界」にも出てられたし、毎日新聞のサイトで講演や植林のスケジュールが紹介されているではないか。どうして私はこういう情報を延々と見逃したのか。
中学生の頃から自分の意識もずいぶん変わってしまったけど、この1週間は車窓から木々を見るのが楽しくてしかたがない。今住んでいる辺りの潜在自然植生、つまり人間の活動の影響が全くない状態で現出する森林はシラカシ林であるという。そういうところを探し歩くのが、この冬の楽しみになりそうだ。鎮守の森の代表的存在である明治神宮の森の興味深い成り立ちと楽しみ方が「魂の森を行け」8章に書かれていた。私は毎日地下鉄でくぐるだけだったが、時間を見つけて行ってみたい。何より、その勢いあふれるという講演を、耳にしてみたい。
1996年刊。当時はサウンドスケープという言葉に興味を持った頃で、新聞広告を見て読みたくなったことがある。最近ふと思い出し、調べたら中古がかなり安くなってたので購入した。
今まで見た中でいちばん好きな岐阜の金(こがね)公園のからくり時計や、2番目に好きな大阪京橋の「京阪モール」の時計、それに岡崎城のからくり時計や京大の時計台が写真付きで説明してある。後半のエッセイでは東京新宿NSビルの巨大な振り子時計の記述があって「上巻31ページ参照」と書いてあるから、上中下巻の3冊を揃える気になってしまう。本が出てから10年間の変化を各地で追うのも一興。
金公園のからくり時計は音を録りに行ったくらい好きなんだけど、あのBGMは「蒼い流れに」という曲、と説明がある。そのタイトルで検索したら岐阜市のサイトに行き着いて、作詞作曲は加藤登紀子さんであることがわかる。京阪モールの時計の写真では、時計の下にポスターが貼ってあって「モールクロックの異星人のニックネーム決まったョ~!ミューに決定!!」と書いてある。良い小ネタです。
私は全然知らなかったのだが、名古屋はからくり人形の文化が育ったこともあって、からくり時計の名所のようだ。確かに御園座や名古屋港水族館のは面白そう。本書では採りあげられていないが、大須の万松寺の、うつけ時代の織田信長が灰を投げるという何ともいえぬからくり時計も見てみたい。そういえば、幼稚園児の頃、名古屋のデパートのデジタル時計が(数字の時刻表示自体が)珍しくて、連れて行ってもらった時に喜んで見てたなあ。
知らないといえば、23ページにある刈谷中央図書館の時計。生まれた町で何度も通った道なのに。高すぎて見落としてたとしかいいようがない。
NPO法人「信州そまびとクラブ」による「そまびとたちの奮闘記(URLは記事"活動が紹介されました")」
http://www.sansonkigyou.net/somabito/2006/07/post_15.html
株式会社「市瀬」(URLは「3.9ペーパー」のページ)
http://www.ichise.co.jp/paperindex/39paper.html
長野県佐久市他の山の木から、上記の方々の手を経て作られた本のうち1冊が、先日小田急線鶴川駅ビルの書店にあったので購入しました。今、手許にあります。
ソニー・マガジンズの雑誌「ecology now」。
http://spn04197.co.hontsuna.com/article/1734321.html
「生産者の顔の見える農産物」はよく見かけますが、「顔の見える紙」に触れたのは、個人的には初めてですね(木製品や、工芸品としての和紙では今まであったんですが)。こんな感じの視点で、何か更なるアイデアが出てくるかもしれませんね。
「印刷物を制作するユーザーが森林所有者に代わって木材輸送コストを負担し、流通業者(市瀬)が山からチップ工場・製紙会社から紙納品までを調整する」という「3.9ペーパーシステム」は、間伐材や国産材の利用を促進するための意欲的な取組みです。
鶴川といえば「鶴川エコヴィレッジ」という住宅の記事も「ecology now」に掲載されています。面白そうです。
6月上旬に読み始め、途中で体調を崩した。医者に「食中毒だろう」といわれたので、この本のせいではないが。でもかなりインパクトの強い本だ。結論は個人的に「ああ、ぐるっと回って養老孟司に戻ったよ」という感じであったが。
私は決してバブルに踊った人間ではない。'80年代後半に日テレでやってた「月曜イレブン」で、南ナントカいうタレントが「ほれほれ恋愛したけりゃ貢がんかい」と煽っていたのを4畳半下宿で見てマジギレしていた者である。「あの頃東京にいなくて良かった」と、読んだ直後には思っていた。しかし、そんな競争には初めから参加せず、自分の興味の向くことだけずっとやってた、ということは、それだけ早くから自分のアタマの世界に入り込んでいたということだ。各自がアタマを優先させる意識が現在の閉塞状況を生み出したという堀井氏の指摘に従えば、決して自慢はできない。
ディズニーランドのくだりは面白かったし共感できた。著者はあそこを、ウォルト・ディズニーというおじさんの妄想的世界の中にすんなり入れる人しか楽しめないところ、とする。概して男にとって、そんなものより自分の妄想の方が正しく、納得できる意味を探して、あるいはディズニーランドに勝とうとして、無駄な努力をしたあげくに疲れてしまう。とにかく楽しければいい女性にはそんなことはないという。私もディズニーシーに行った際にしたことといえば、あの延々と聴こえるBGMを流すためあちこちに隠されたスピーカーを捜して、デジカメで撮りまくることだった。
先日書店でちょっとだけ(「女はなぜ男の計画をぶち壊しにするのか」のところを)立ち読みした姫野友美著「女はなぜ突然怒り出すのか?」という本が、どうにも気になっています。
1965年生まれの著者による、1998年発行のさだまさし論。古本屋で見つけて、週末に手元のCD「続・帰郷」や「風見鶏」を聴きながら読む。
ほぼ著者と同世代である私としては、「やさしい男」像が求められる風潮がすっかり定着した中で中高生になり、その頃聴いた"関白宣言"や"防人の詩"や"償い"や"祈り"に影響を受けた、みたいな人の視点からの記述も少し期待したのだが、見崎氏は広い世代の読者に向けて、昔から今までの曲をくまなく客観的に採り上げていた。
著者が分析対象にするのは、さだ氏の歌詞・ライナーノート・著作物などの文字情報のみ。対象を絞り込んで視点が簡潔になったとは言える。しかし音楽自体も適宜織り込めば、もっと展開の幅が広がったかもしれない。例えば「風に立つライオン」の批評で、サンタクロースを「キリスト教=侵略者のオルガナイザー」と位置づけているが、これに加えてエンディングに「アメイジング・グレイス」を挿入したアレンジを引合いに出せば、説得力が増したかもしれない。
90年代のさだ氏をリアルタイムで紹介するところは、私はほとんど聴いていなかっただけに個人的に有益だった。20年近くも反戦平和のメッセージを送り続けてきたさだ氏に対する著者の敬意が伺える。「生命主義」と名付けたくだりは、いくぶん肩入れしすぎて空回りしたキライはあるが。
ここで個人的なさだまさし観について書こうとすれば、一度実家へ戻ってLP「夢の轍」を取ってきて、ライナーノートを読み返さないといけない。80年代後半に私もさだまさしから離れてしまったが、その理由は、彼のメッセージが自分にはハードルが高すぎなのではないかと思ったからであった。それはともかく、さだ氏を「暗い」と批判した時代というのが一体何だったのかという点は少し考えてみたい。次に読む本は、堀井憲一郎「若者殺しの時代」を予定している。
面白かった。つとめて事実を客観的に記そうという姿勢が現れてよい。2003年の本だが、近い将来に続編が出て欲しいものである。
路面電車の乗客数は、路線の長さではなく、ネットワークの稠密度を示す「系統数」に規定されるらしい。筆者は長崎の路面電車を、系統数の多さ、ダイヤの利便性で高く評価している。拙稿「さるきたかです」で書いたことは、これを受けてのもの。
すでに海外では、街づくりにおける路面電車の有効性は証明されていて、ベンツとポルシェの本拠地であるシュツットガルトも、街中の移動は路面電車が中心で、中心部にはトランジットモールが設定されているとか。
新潮文庫「若き数学者のアメリカ」は、高校時代に読んだ中で一番面白かった本だ。
あれから20年経った今、著者の藤原正彦氏は「国家の品格」の著者として注目を浴びている。最初に「国家の品格」の新聞広告を読んだ時、それが「若き数学者のアメリカ」の内容とつながっているようにはどうにも思えなかった。そこで「国家の品格」の少し前(単行本は2000年)に発行された「古風堂々数学者」という文庫本を読めば何かわかるかもとしれないと、買ってみたのである。
結論からいうと、見事に文脈はつながっていた。「古風堂々…」には、「…アメリカ」後の経験で新たな視点を得て、内面の変化を自覚的に記述した部分がある。そこから彼の国家論、教育論に至る流れに無理はない。
近藤貞雄氏の著書「退場がこわくて野球ができるか」を読んだ。
氏が右手中指の負傷を克服し、投手として再起された件については、以下のように書かれている。
翌'48年春のキャンプで、選手の大量引き抜き騒動で戦力が弱体化していた中日ドラゴンズにテスト入団で拾われることになった。
中日ではもちろん、右手がまともに機能しなくなった僕の投手としての能力ではなく、代打・代走要員として雇ってくれたのだが、それでも不自由な右手を駆使してキャッチボールを繰り返しているうちに、ボールが打者の手元で大きく変化することに気がついた。
これが「パームボール」という球種であることを知ったのは、もう現役を終えようとしているころだったが、この変化球を武器に、僕は中日で1948年から7勝、7勝、10勝と、計24勝をマークした。
僕にとっては、巨人時代の1946年にあげた23勝よりも、この24勝のほうがはるかに価値が大きい。(65~66ページ)
65ページ下に注釈があり、中日は1947年オフに球団内部の対立がもとで主力10人が離脱、'48年には前年の2位から最下位(8球団)に転落した、とある。
まあ知ってる話だなと思って、軽く読み進んだ。 ところがどっこい。
拙稿 "雑誌「city & life」を読んだ 2"の続きです。
クルマが多すぎて、最もコンパクトシティに程遠い感じがする中京圏ですが、昨年夏に東区や西区の住宅街・商店街を歩いた時、初めてそれまでとは違う印象を受けました。それをもとに書いてみます。ですから、名古屋の本当の中心部、名駅・栄近辺などに関しては考慮しておりません。
第一住宅建設協会の「City & Life」誌、秋に買ったNo.77・75に続いて、No.73とNo78(最新号)を購入した。「コンパクトシティ」という概念による都市計画の事例を丹念に採りあげていて、非常に興味深く読んでいる。
以下、ちょっとメモ。
問題とされる事柄:
コンパクトシティの考え方を取る目的:
方法:
前にも書いたが、No.75(2005年3月発行)はオランダやフランスの、ある意味理想的な事例が載っている。ハウテンとか、本当に住みたくなっちゃうよ。
対してNo.73(2004年9月発行)とNo.78は、国内でコンパクトシティに基づく計画が進められている事例、あるいは歴史的にコンパクトな街を形成している事例が採りあげられている。中には少なからず苦戦しているケースも。No.73の表紙は、岐阜市内を走る名鉄770系の写真で、ちょうど取材時にこの路面電車の廃止が決定したとのこと。
ちょっと、また後で個人的な感想を書いてみます。名古屋関連。
<参考>オランダ・ハウテン探訪記(「ニックレーダー」ページより)
http://www.nic-nagoya.or.jp/nicradar/nicradar0202.htm
2001年に福井市で行われた「トランジットモール社会実験」のページhttp://www.city.fukui.fukui.jp/rekisi/tyusin/trans/frametop.html
子供はまだ1歳なんですが、楽しく読みました。
「ディベートは最悪の教育法(p.52)」や「身体よりも脳の方が攻撃的(p.109)」など、いくらでもここに紹介したい話があるんだけど、何というか、子供だった頃の自分を思い出しました。いつも自分の思いを的確に言葉にできず悩んでいたとか、ある出来事で「うちの父親は、こんな時だけ出てくるのか」と思ったこととか。普段は具体的に思い出せず、「なんだかとてもしんどかった」という感じが残っているだけだったものが甦りました。
全体にわたって、今の子供のいろんな話をしてるようで、その現象の根は、われわれが子供の時からあったような話にもなっているのです。エピソードに出てくる"昭和天皇を「カワイイ」といった女子高生"は、内田氏と20歳、名越氏と10歳くらいしか離れていないはず。
それにしても、お互いこれだけ波長の合う人と対談ができる、という境遇そのものをうらやましいとも思った。
月曜日の朝日新聞の全面広告に名越氏が登場していた、ポプラ社の「月刊プシコ」という雑誌を書店で探してみたが、今日は見つからなかった。○河○子の文章なんて読みたくないので、買うかどうかは未定なんだけど。
名古屋建築会議の武藤隆さんのblogにて、「どんぐりひろばプロジェクト」が「city & life」という雑誌に掲載されたとの情報を得る。発行元の(財)第一住宅建設協会に問合わせたら、書店では扱っていないとのことで、直接注文した。
どんぐりひろばが紹介されているのはNO.77(2005年9月発行)。「特集:公共空間、新たな視点」内の「写真ルポ:コモンの風景…公共空間を探しに行こう!」という記事で、特色ある事例として紹介されている10件のうちの1つが、どんぐりひろばである。他には京都の法念院や東京のMARUNOUCHI CAFE、名古屋のノリタケの森など。空き地をほぼそのままオープンスペースの形で提供してる事例もいくつか。東京都練馬区で、「けんか広場」という原っぱの存続のために地域住民有志が展開した運動の話は感動的だ。
インタビューをはじめとして文章量は多いが、公共空間というテーマにしぼって書かれているので、とても読みやすい。特に町村敬志という人の「鈍さの公共空間」という記事には、個人的に共感できるところが多かった。A4で40ページとコンパクトなのも、電車の中で読めるし気に入っている。これで500円は安い。余計な広告とか一切ないし。
NO.75(2005年3月発行;特集:マルチモーダルが都市を楽しくする[ヨーロッパ編])も一緒に買った。オランダやフランスの、自転車やトラム(路面電車)などを地域の足として活用した街を採りあげているが、写真を見ているだけで楽しい。表紙からして、前に2人用シートを設置した2輪自転車に、お母さんと子供3人が乗っている写真だ(後ろの荷台にもう1人)。これから記事を読むのが楽しみ。
月刊誌「散歩の達人」2005年7月号は「麗しき多摩丘陵ライフ」。多摩地域に住んでいることもあって、初めて買ってみる。
いちばん印象的なのはp79「緑のワンダーランド・多摩ニュータウンを往く」。筆者が自ら言われる通り、残念な仕上がりではあります。
(前略)…確かに高齢者は多いけど、皆さんまるで魔法のように足腰丈夫だし、
まるごとテーマパークのようだなあ…(中略)しかし、しかしである。ニュータウンはあまりに広すぎ、地形も道も複雑だった。何日も足を棒にしたが、全容がつかめない。正直、途方にくれた。しようがない。「散歩の達人」を返上、炭焼き遊び人を称する祐乗坊さんに泣きついた。「ははは、そんな生半可な取材じゃわかりませんよ。(後略)
というわけで、何やらすごそうな多摩ニュータウンの魅力が特集最後の2.5ページにちまちまと凝縮されてるのですが、こういう「不十分なことが明白な情報」を見ると、却って行ってみたくなるから面白いものです。
対照的に、特集の最初にある、東急田園都市線・小田急線・京王線の各沿線のイメージを比較した記事が「そんなの見りゃわかるだろ」てな感じで面白くない。いや、写真はいいんですよ。「夢」とか「ゆるい」とか、同じ言葉を何度も使って、ひたすらイメージを固定させるために書いてあるかのような文章に違和感あるんです。
とにかく全体的に、面白いのもつまらないのも含めてすごい文章量だと思います。その分を、少しでも地図に使うスペースに回してくれたら、もう少し読みやすくなりはしないか……と思ったら、
p.36「多摩丘陵徒歩ハイウェイ」という、丘陵の尾根筋を縦走する記事(とても面白い)に、こうありました。
私自身、道なき道を行ったりしてルートファインディングが楽しかった。この地図ならあなたから道探しの楽しみを奪わない。
……わざとでしたか。
昨年12月23日にカッパ・サイエンスの「いま、ヨーロッパが崩壊する(下)-「野蛮」が「文明」を生んだ」を買って、正月休みにかけて読みふける。面白かった。同じシリーズの"(上)"である「殺し合いが「市民」を生んだ」を10年前に買い、ずっと持っててよかったと思ったものである。今はその内容の関連で、小杉泰著の講談社現代新書「イスラームとは何か」を読んでいる。これもすごく面白い。アラブ文化が知識のよりどころとして音(口伝←"くでん"と読むのか!知らなかった)を文字(書物)より重視し、耳からの暗記を尊ぶ文化である、というところが特に印象深い。
高校時代、現代社会という科目は得意だったけど、世界史の授業はほとんど寝てたんですよ。教科書を懸命に覚えてて「マルクス=アウレリウス=アントニヌス」という名前に出くわした時、何か気力がぷつっと切れたことを覚えている。しかし、いつかは必要となるものですね。
これからちょっとずつ勉強するため、「楽しい世界史」というページがあるサイト「やっぴらんど」にリンクさせていただきました。
CD「シルクロード・ジャーニー~出逢い~」で、間宮氏の「5つのフィンランド民謡」が演奏されてるのに因んで、ずっと読まずに放置していた岩波新書「現代音楽の冒険」を読んでみた。私が彼の作品を聴いたのは、このCDと、1回何かの合唱曲と、それくらいである。昨年から音楽に関する本を(消化しきれないけど)何冊か読んだおかげもあって、今度は何とか読み進むことができた。
本書では曲が作品の形になるまでに彼がしたこと、考えたこと、突然示される仮説とその証明、6ページに渡る歌詞全篇掲載など、あっちこっちに話題が飛んでいく。しかし、話の中心には常に「民俗文化(基層文化)の音」が持つ「霊的な力=まじないなどの音の記号性」があり、彼の作品はその力を引き出し「聞きかえ=文化の異種交配」によって現在の都市に再現させるねらいがある、という。それを実現した例として、バルトークによって抽出されたハンガリーの伝承音楽や、ジャズなどを挙げている。
同時代の作曲家たちがどのように状況に向かい、どうやって音を形にしたか、それと比較して自らはどうしてきたかの記述が興味深い。さまざまな過程を経て現在自分は何をしているかを語りかけたところで、本が唐突に終わってしまう。新書ではなかなか得難い衝撃であった。
某中古CD店にて、Tears for Fears "Seeds of Love"を、なんと167円で購入できた。
今5曲目の"Standing on The Corner of Third World"を聴いているところ。こんな喜びがまだ世界には転がっているのだ。
似たような幸運はここにも転がっているのに、喜ぶ人がいまのところ現われないのは、どうしたのだろうと思ってしまう。いや、僕はこの人の本にかなり影響を受けているので。
スティーブ・ビダルフ著「男の人って、どうしてこうなの?」の概要は、このサイトの著者インタビューに詳しい。日本では、同じ著者による「男の子って、どうしてこうなの?」の後に出版されたが、ビダルフ氏自身は「男の人…(原題:Manhood)」を「男の子…(原題:Raising Boys)」より先に書いている。手許にある「男の子…」では147ページに「Manhood」のことが「男らしさ」という書名で登場している。
中公新書版「ゾウの時間ネズミの時間」は、以前私が途中で挫折した本である。内容についてはとても興味があるのだが、あることにだんだん堪えきれなくなり、ついに読むのを断念、心底残念だった。
本文が横書きでないのがつらいのだ。「Wの〇・七五一乗」とか「二一四匹」とか「ミトコンドリア三ミリリットル」とか縦に書かれると、さっぱり数値として頭に入って来ない。これが数式になると、数字も漢字も右に90度傾けて縦に書かれる。挿入されてる表やグラフは横書きである。ばらばらで頭が混乱するのだ。
先日、この「絵ときゾウの時間とネズミの時間」という本があるのを知り、購入。こちらの説明は単純明快、こなれていて確かに分かりやすい。もういっぺん中公新書版も読んでみようという気にはなった。しかし、全体で40ページしかない、いわゆる絵本で、裏表紙に「小学中級むき」と書かれていた。両者の中間みたいな「ゾウの時間ネズミの時間」を読みたいのだが…。
絵本の最後は、「一生のうた」ではなく、体の大きさと時間の関係の「例外」として挙げられた、ナマケモノのうたである。これは一見の価値があると思います。
「文-体 読本」の「彼女にとっての鳥の声(高橋千剱破氏(文芸評論家)「自然を意識することで見えてくるもの」からの引用)」という記事を読んで購入。
とても面白かった。
1999年に神戸ジーベックホールで開催された「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に参加して暗闇を歩いた時、痛感したことがある。私の聴覚は距離感・立体感をイメージさせてくれなかった。方向はわかる。でも前を歩く人との距離が全く把握できず、何度も背中にぶつかってしまった。
著者の三宮麻由子氏は4歳で視力を失ったが、鳥の声を聞いて空の存在を意識し、滝の音を聞いて「景色を聴く」ことを知った。それまで「点(ポワン)」として捉えていた世界を「空間」として捉えるようになったプロセスを様々な角度から描き、自然の中の自らについての深い考察をすすめている。スズメの声から時刻・天気・外の明るさ・街並の様子・またスズメ自身の心理を聞き取ることができるようになったというところにまず惹き込まれた。「鳥の声の余韻がどれくらい高く響くかで、その場所の開け方を感じることができる」とか、読者が新たな感覚を開かされるような文も随所に散りばめられている。
知らぬ間に西武のレギュラーの顔ぶれがすっかり変わってたので「週刊ベースボール・2004プロ野球全選手写真名鑑」を引っ張り出して日本シリーズを見てる。8ヶ月前の記事が、もうずいぶん昔のことのようだ。球団合併、ストによる試合中止、イチローの262安打、いずれも思いもよらぬ時期。その前月末に近鉄球団は命名権の売却を試みるなど、今思えば必死で経営の存続を模索していたが、結果的にこれは近鉄の選手が揃って載っている最後の名鑑号になる。
藍川由美著「これでいいのか にっぽんのうた」の68ページにあった、「イギリス人エリスが測定した、日本の音階の振動数の近似値:ド258.6、ド#274.7、レ292.7、レ#305.6、…ラ437.0…」というのが、いったい何なのかずっと引っかかっていたが、小泉文夫著「日本の音-世界の中の日本音楽」と中川真著「音のかなたへ」を読んで、わかった。
1976年発行の講談社現代新書版を、先日古本屋で見つけて読みふける。(2001年に平凡社ライブラリー版が再刊されている)。
現代新書版の表紙に記載された概説。
(前略)人間にとって、日本人にとって音楽とはいったい何であろうか。本書は、世界の民族音楽や日本の音楽の歴史を見なおし、日本の風土にあった、日本人の音楽を模索する。日本を代表する民族音楽学者と作曲家が、縦横無尽に語りあった、音楽を通して見た日本文化論。
愛知県在住の弟が家に遊びに来た時に教えてくれたのが、東海地方や九州などで放送されている「ノブナガ」という番組の、このコーナーのことだった。ペナルティの脇田という人が、CBCのスタッフと二人連れで道ゆく人に声をかけ、その場所の地名でしりとりをする。しりとりの対象は、相手が行ったことのある土地に限られるが、地名を言われたら、脇田氏らはすぐにその地へ行かなければならない。
読みました。
うちの両親は、「どうして空は青い」にはじまって、幼児期の私のあらゆる質問に対して、かなりていねいな説明をしてくれたのだが、私が親に経済の質問をした記憶はない。7歳でオイルショックだったけど、現在に比べればまだまだ気楽だったのは否定できない。「第2章 銀行はなぜおかしくなったのか」みたいな今の状況を子供に説明するのは、確かに大変なことだろう。「信用創造機能」を出演者の子供に説明したら、「ズルイ。だまされてるみたい」という反応だった、というのがあったけど、自分が高校の現代社会でこれを勉強して、やはり同じ感想だったことを思い出した。
番組同様、いろんな記事の製作エピソードが集められ、とてもためになる。読んでいただければわかる。キャラクターの「スクープ君」は中東・イスラム関連のニュースには登場しない、というのは気づかなかったなあ。
最後の解説で、天野祐吉氏が「書き言葉で書かれてきたニュースを、話し言葉にとことん近づけたのが新しさだ」と言ってるところも興味深い。「明治期に"黙読"が成立したことで、ニュースの言葉から"音"が消え、耳で聞いても意味がよくわからない珍妙な書き言葉がニュースの中でハバをきかすように」なったと、天野氏は指摘している。
今朝の日経「健康」面に、「古武術の身のこなしを採りいれることで、中高年者の体への負担を軽減し、ケガを防ぐことに役立つのではないか」という記事があった。その典型的な動きとして、体をひねらずに歩いたり走ったりする「ナンバ」を紹介、走り方の図などが掲載されている。ちょっとマネしてみたが、上手くできたかわからない。長距離走でヘトヘトになった時に体を前に投げ出し、重力を借りて走ることがあるが、あんな感じだろうか。
読みました。
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仕事上の付き合いなどを「半フォーマルな場」と位置付け、そこでストレスなくコミニュケーションを行う技術を伝授。日本人は仲良し同士での「プライベートな場」でのコミュニケーション欲は旺盛なのに、そうでない場で対人関係にストレスを感じる、話しかけてもレスポンスを返さない、等のコミュニケーション不全を起こすのは何故か、どうしたらよいか、というのが、初めの問題提起である。
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