阪田寛夫著「どれみそら」
「サッちゃん」「おなかのへるうた」などの童謡・合唱曲の歌詞を作られた阪田寛夫氏(個人的には「あさおきたん」が一番すごいと思う)の、かくも温かき語り。
工藤直子さん他何人かの方によるインタビュー、対談などで構成されている。章ごとにテーマがいろいろあるが、これを時系列にならべていくと、明治から今まで、子供たちのために大人が作った歌の流れがわかる。
(次の段落に私が書く順序は、大雑把な時代順に並べ替えてある。本書の記載内容の順とは異なるのでご注意いただきたい)
時代的に最初に登場するのは井沢修二という明治初期の役人である。彼はこの先の日本の音楽教育のあり方に関して、ある報告書を出した。これについては後で紹介したい。
このあと具体的に数多くの作品、作者が取り上げられ、特徴が紹介されている。「旅愁」「ふるさと」、北原白秋の「思ひ出」、岡野貞一、宝塚歌劇団を創った小林一三、著者の叔父である大中寅二、その息子の大中恩、著者の朝日放送勤務時代に知り合った、佐藤義美・團伊玖磨・まどみちお・中田喜直・冨田勲など、世代の近い作詞家・作曲家たち、近年の童謡作詞一般募集への応募作。1950~60年代生まれの童謡作者との対談を通して、昭和40年以降の童謡の変化についてもふれている。
この中にあって、著者自身は自らの子供向けの歌の創作をどう捉えていたか。拙いまとめながら、こんな風ではないか。
子供の頃、ドレミソラ(いわゆるヨナヌキ音階)のわらべ歌に囲まれて過ごしていたが、家がキリスト教だったため讃美歌の影響を受け、いわゆる西洋音階、ドレミファソラシの音楽に憧れを抱いていた。それは思春期への「宝塚」への憧れにもつながっている。この頃自分でも詩を書き(曲はつけてもらえなかったが)、大学に入ってからは小説も書き始める。朝日放送に勤めている頃、いとこの大中恩に詩をたのまれ作ったのが「サッちゃん」。曲がついて10年経ったころに初めて気が付いたのだが、この曲の音階は「ドレミソラ」だった。他にも戦後に人気を得た童謡のうち、少なからぬ曲が「ドレミソラ」であることに感動し、どちらも大切にしたいと思うようになった。
著者は昭和30年代から多くの童謡の作詞を手がけている。しかし、
早い話が、私たちは自作の童謡を歌ったか?これが歌わなかったんですね。よほど感傷的になったとき、ひとり心の中で歌った人ならいたかと思うけれど、人前では口が裂けても歌わない。(中略)ひと頃の酒席では、品のいい子供の言葉を西洋音階で芸術的に作曲された童謡ほど、間の悪いものはありませんでした。
(中略)
こういう状況は、どういう状況かと申しますと、明治の昔、最初の音楽取調掛の伊沢修二が、「言うは易く実行は難い」と嘆きながら、西洋の童謡と日本のわらべ歌を比較対置して、折衷をはかって以来、百何十年、東西二元的な音楽観をそのまま持ち越している証拠ではないでしょうか。
(249~250ページ)
と、語られている。
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