見崎鉄「さだまさしのために-批評と擁護」
1965年生まれの著者による、1998年発行のさだまさし論。古本屋で見つけて、週末に手元のCD「続・帰郷」や「風見鶏」を聴きながら読む。
ほぼ著者と同世代である私としては、「やさしい男」像が求められる風潮がすっかり定着した中で中高生になり、その頃聴いた"関白宣言"や"防人の詩"や"償い"や"祈り"に影響を受けた、みたいな人の視点からの記述も少し期待したのだが、見崎氏は広い世代の読者に向けて、昔から今までの曲をくまなく客観的に採り上げていた。
著者が分析対象にするのは、さだ氏の歌詞・ライナーノート・著作物などの文字情報のみ。対象を絞り込んで視点が簡潔になったとは言える。しかし音楽自体も適宜織り込めば、もっと展開の幅が広がったかもしれない。例えば「風に立つライオン」の批評で、サンタクロースを「キリスト教=侵略者のオルガナイザー」と位置づけているが、これに加えてエンディングに「アメイジング・グレイス」を挿入したアレンジを引合いに出せば、説得力が増したかもしれない。
90年代のさだ氏をリアルタイムで紹介するところは、私はほとんど聴いていなかっただけに個人的に有益だった。20年近くも反戦平和のメッセージを送り続けてきたさだ氏に対する著者の敬意が伺える。「生命主義」と名付けたくだりは、いくぶん肩入れしすぎて空回りしたキライはあるが。
ここで個人的なさだまさし観について書こうとすれば、一度実家へ戻ってLP「夢の轍」を取ってきて、ライナーノートを読み返さないといけない。80年代後半に私もさだまさしから離れてしまったが、その理由は、彼のメッセージが自分にはハードルが高すぎなのではないかと思ったからであった。それはともかく、さだ氏を「暗い」と批判した時代というのが一体何だったのかという点は少し考えてみたい。次に読む本は、堀井憲一郎「若者殺しの時代」を予定している。
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