團伊玖磨+小泉文夫「日本音楽の再発見」
1976年発行の講談社現代新書版を、先日古本屋で見つけて読みふける。(2001年に平凡社ライブラリー版が再刊されている)。
現代新書版の表紙に記載された概説。
(前略)人間にとって、日本人にとって音楽とはいったい何であろうか。本書は、世界の民族音楽や日本の音楽の歴史を見なおし、日本の風土にあった、日本人の音楽を模索する。日本を代表する民族音楽学者と作曲家が、縦横無尽に語りあった、音楽を通して見た日本文化論。
幅広く深い知識と経験と豊富なイマジネーション、自分のことも含めた事実と率直に向き合う姿勢、そして「真に国際的であるとは、自分達自身に真実なものを求めることだ」という認識、これら二人に共通した要素によって、本書の話題は時間的にも空間的にも自在に展開する。まさに縦横無尽。「そこ、もうちょっと詳しく話して欲しい」と思ったこと数知れず。でもそんなことしたら、とても新書には納まりきれない。
この本が発行された1976年と、現在の違いがわかる記述も見られる。当時は、
「従来、コンサートなどの方法によって、"集団で"音楽を享受していた人々が、個人的な環境でも音楽を聴くことが可能に」なり始めた時期であり、「本来、始まりと経過と終りがあって、その中を流れるフォルムがあるはずの音楽を、デパートのBGMなどで細切れに聴かされる弊害」も出てきた時期である、と。
とりあえず自分は、CMやBGMで流れてくる15秒から数分の音楽も、あたりまえのものとして聴いて育ったので、個人的には音楽に関して絶えず形式が意識されることはない。
他にも「1950年代後半にバグダットの放送局で聞いた話では、西洋系音楽のラジオ番組が不人気のため、時間が短縮されている。123、123、あるいは1234、1234という単調なリズムがやりきれない、と投書が来る」「馬の上下動は跳躍のリズムと関連するが、日本では馬が上下動をすると武士の鎧がガサガサして困るので、そのような動きがない"側対歩"という歩き方を訓練した(側対歩とは、左前脚と左後脚、右前脚と右後脚が一緒に前に出るという歩き方とか。馬にもナンバを強いたということかな)」「アラスカのエスキモーの著作権は金銭に置きかえられない名誉的なものだが、著作権者はその曲に関して絶対的な権利を持ち、許可無く作曲者の作った通りに歌ってはいけない、という指定さえできる。著作権者の死後も、著作権は配偶者や村中で音楽に最も詳しい者に移動し、継続する」などが興味深い事多数。次は小泉文夫氏の著書を、どれか読むことにしよう。
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